Hirologue

年齢を理由にエンジニアになることを諦めないミドルの成長記録

EP 0: オリジン

はじめまして!このたびプログラミングスクールHappiness Chain Euforia2期生として入会したHiroと言います。このブログは私が50歳目前にして非IT業界からWebエンジニアへの転職を目指す成長記録です。

本記事では、なぜ私がWebエンジニアを目指すのか、その背景をつづりました。

DNA

我が家にとって父は絶対的存在でした。
なぜなら、言ったことは必ずやる、口先だけではなく行動で私たち家族に示す人だったからです。私は、そんな父の後ろについて回る、いわゆるお父ちゃん子でした。

ある日父と初めて海釣りに出かけたときのことです。
一艘の小さな船の前で父は私にこう言いました。
「よーく聞け、この船は俺が作った。俺はな、船で太平洋を横断したかったんだ。でも、母ちゃんと婆ちゃんに猛反対されたんだよ。そんな危ないことはやめてくれ、そもそも船がないじゃないかってね。泣いて頼まれたら、諦めるしかないよな、でもな、船だけは作ろうと決めてたんだよ。だからな、設計図を手に入れて自分でこの船を作ったし、免許も取ったんだよ。ハハハ!ほら、乗れ、行くぞ!」

「ないものは作ればいい、男ならやると決めたらやりきるんだ。」40年以上経った今でも鮮明に覚えています。
それだけ私の心に強く刻まれた出来事だったのでしょう。

ぼくのゆめ

1983年、現代のTVゲーム機の元祖、ファミリーコンピューター爆誕しました。
幼い頃から私はなぜか「コンピューター」と言うワードに強く惹かれていました。
それを知ってか知らずか、ある日、父がファミリーコンピューターを買ってきました。
兄と私は狂喜乱舞。寝食を忘れるほどゲームに没頭しすぎてファミコン本体を取り上げられたりしたこともありました。 それほどまでにゲームが好きだったんです。

いつか、面白いゲームを作ってみたい、つくる人のことはプログラマーっていうのかぁ。
そうだ!プログラマーになろう!それなら工業高校の情報科に進めばいいんだ。
そして、中学3年の冬、私は高校の入学願書を担任に提出したのでした。

第1希望の欄に工業高校の情報科の名を記して。

夢破れる

入学願書締め切りまであと1日。
担任が我が家に電撃訪問してきました。
「お父さん、Hiroくん、大事な話があってきました。」

「第一志望の情報科は志願倍率が高く、Hiroくんの内申点では間違いなく不合格です。」
そう、当時の私は提出物は出さないし、授業の邪魔をしたりとお世辞にも良い生徒とは言い難い存在でした。
思考が停止した私をよそに担任は続けて話しました。

「お父さん、よく聞いてください。
コンピューターもいいですが、これからは化学です。新素材が続々誕生している今、進むべきは化学科です。たしかに情報科に比べて偏差値が低いのは否めません。でも、そこで成績上位をキープすれば学校推薦で大学進学という選択肢ができるんです。
Hiroくんの将来を考えて、化学を学ばせてみてはどうですか?」

そう言って担任は帰っていきました。
私の将来のことを心から心配してくれている担任に父は心打たれ、私に化学科の受験を勧めたのでした。
絶対的存在の父に化学への道を勧められると断れないのが我が家。

私はふてくされ、嫌々ながら受験願書の第1希望の欄を化学科に修正して再提出したのでした。

カガクヲマナブ

年号が昭和から平成に変わって2年が経過した年、私は高校で化学を学び始めました。
「カタカナの化合物名覚えにくいわぁ、ったくよー」とかブツブツ文句を言いながらもゆっくりと化学にハマっていったのでした。

一方、部活は中学から始めた柔道を高校でも続けることにしました。
理由は親友も入るから。高校で続けるほど強くもないのに、単純な理由です。
実はこの柔道部、 悪名高い 厳しいことで有名だったのです。
髪型が坊主一択なのはもちろんのこと、先輩・監督の言うことは絶対。黒いものを白と言ったらそれは白。返事は「はい」か「YES」、怪我をしても「ダメです、無理です、できません」と言ってはならない、など。今の御時世では到底考えられない昭和のストロングスタイルを貫く、まるで軍隊のような部活でした。
それでも続けることができたのは、一緒に頑張った親友の存在が大きかったのは言うまでもありません。
ここで私は、社会の理不尽さを横目に見つつ、どんなに過酷な状況でもやりきる根性を養ってもらったと思っています。

こんな辛い部活動を続けながら授業に睡眠学習を取り入れつつ学業も頑張り、ついに中学時代の担任の目論見どおりに事が運びました。 大学進学決定です。

もちろん、化学系学科です。

守るべきもの

大学に入学したものの、周りとの学力の差に愕然としました。
「やべー、授業の中身がわからん」私の成績は下から数えた方が早いポジションでした。友人の助けも借りながら何とか授業に食らいつき、バイトや飲み会、徹夜で対戦ゲームと学生生活をエンジョイしていました。

そんな私にも彼女ができました。バイト先の系列店で働く社員さん、のちの妻です。
交際から2年、私は学校を出たら、この人と結婚しようと心に決めました。
修論発表も無事終わった頃、私は彼女の家に初めてお邪魔して、ドラマでよくある「あの場面」を再現することになりました。

「娘さんとお付き合いさせてもらってます。この先結婚したいと思っています。よろしくお願いします!」
「わかりました」・・・・・あれ?あっさりOK出たよ。

こうして私は周囲に早すぎると言われながらも、就職してまだ2回しか給料をいただいていない時期に結婚し、翌年には長女が誕生しました。

父になった私は、仕事を終え帰宅して天使の寝顔を見るたびに明日も頑張ろうと誓い眠りにつく日々を送りました。

我武者羅

私が勤める会社は、環境計量証明事業というものを主として行っています。
あまり馴染みのない仕事ですが、工場などから環境中に排出される様々な化学物質を分析して、その濃度などの分析結果を証明書として発行する仕事です。
ニュースでたまに見聞きする「どこどこで、環境基準の◯倍の有害物質が検出されました」のあれです。実はこのような報道の背後には私たちの業界の存在があります。
この仕事には、化学や物理に関する専門知識だけでなく、関係法令や規制の知識、それと堅苦しい法律の中身を噛み砕いてお客様に説明する能力などが求められます。それゆえ、高度な専門性を要する仕事と言えます。

化学分析というのは、 非常に複雑な前処理工程が必要になります。
そして、前処理後の試料を分析装置にかけ、PCで測定結果を解析し、必要なデータを出力します。新しい規制物質が追加された場合には、自社で測定できるのか、どのような機器を購入しなければならないかなど様々な検討事項が発生します。
私は規制物質の追加や規制の変更、新しい分析装置の導入、購入後のルーチン化が必要とされるなら率先して担当し、0→1を達成することにある種のエクスタシーを感じていました。

とてつもない熱量で仕事に励み続けました。
なぜなら、私には家族を守る使命があるから。

忘れもの

長女誕生から7年が過ぎ、待望の第二子となる二女が誕生しました。
二女の誕生をきっかけに、これまでの子育てへの関わりを振り返ってみました。 長女が生まれてから毎日深夜まで仕事ばかりしていたことなど、反省点だらけです。
そこで、これまで強火だった仕事への情熱を中火にしてみよう。新しいことがあれば後輩を育てるためにもあまり動かないようにしよう。
といった具合に、私の中で働き方改革をおこしました。
後輩は私とこれまで一緒に仕事を進めてきたので、引き継ぎは非常にスムーズでした。

仕事内容を引き継ぎ終えた私は、私の手によってルーチン化された分析業務を淡々とこなす毎日を送りました。
「刺激がないなぁ、これじゃ、ただのルーチンワーカーじゃないか、つまらん」
と思いつつ、家族を養うためには仕方がないんだと、自分に言い聞かせながら働き続けました。そして、いつしか私の仕事への情熱は少しずつ弱火になっていったようです。

私が生まれ育った地域では、数えで42歳になる年のお盆に厄払いと中学の同窓会が開催される習わしがあります。
2015年の夏、それは開催されました。
同窓会には中学時代の担任も出席してくださいました。
私はすぐさま担任のもとへお酌に向かいました。
「先生お久しぶりです。お元気そうでなによりです。あのとき先生が化学科を勧めてくれたおかげで、大学にも行けましたし、結婚して子どもも生まれました!本当にありがとうございました!」
卒業から二十数年経っても先生はご健在で
「おお!元気にしていたか!それはよかった。私も化学科を勧めた手前どうなったか心配してたよ。」
先生は続けざまにこう言いました。

「で、その後プログラマーへの道は諦めたのかい?」

忘れていた憧れが頭をよぎる。プログラマーになりたい夢はどうした?

願いを叶えるために

同窓会以降、プログラマー・プログラミングといったワードがふとした瞬間に思い浮かぶようになりました。

「プログラミング始めてみるか?いや、無理だろ」
「プログラミングやってみたいんじゃないか?いや、どうやって勉強するんだ?」
こんな自問自答を繰り広げる頻度は日に日に増えていきました。

ある日、高校生になった長女が大学に進学したいと願い出てきました。勉強を頑張る決意表明した娘の願いを断る理由なんてありません。
しかし、心のなかでは、学費に仕送りにと金銭面での心配が生まれたのも事実です。
いつしか私は、別の収入源を求めてアウトソーシングサイトにたどり着いていました。自分の持つスキルで何かできないかとサイトを隈なく見ているとあることに気づいたのです。

「プログラミングできると単価跳ね上がるな、すげー!やるしかないな、プログラミング」

と、きっかけは俗な理由ですが、やると決めたらやりきる。
幼き日に父が行動で示した教えです。

邂逅 

プログラミング学習を始めるにあたって、まずはプログラミング学習の方法について学び始めました。40過ぎの大人であるというプライドなんてかなぐり捨て、自分を幼児・小学生レベルまで落としました。
ビジュアルプログラミングのScratchからスタートです。
これを楽しめなければ、プログラミングは向いていないと諦めようと決めていました。しかし、そんな不安はどこ吹く風、楽しくプログラムの基本制御構造を学ぶためのいい教材でした。小学校などでプログラミング学習に採用されるのも納得です。
こうして、プログラミングへのアレルギー反応がないことを確認した私は、次のステップとして定番のProgateに進みました。

人生初のサブスク課金にビクつきながら数ヶ月間、色々なコースに挑戦してみました。自分と相性が良さそうな言語を模索するなか、Pythonに出会いました。
「なんてわかりやすいんだ!汎用性も高い人気の言語だと!よし、Progateは終わりだ。次はPythonを学んでみよう。」
そう決心した私は学習教材を探しにすぐさま書店へ向かったのでした。

入門的書籍を一通り終わらせた頃、今更ながらUdemyの存在を知ったのでした。「なんじゃこりゃ、教材の宝庫じゃないか」トキメキました。
興味のある講座を買っては学びを繰り返していたとき、他部署から異動したての部下が何やら困っている場面に遭遇しました。
事情を聞けば、Excelシートに手入力するタイプの証明書を作成しているが、入力ミスが多くて困っているとのことでした。たしかにヒューマンエラーの要因が至る所に散りばめられた、まるで地雷原のような作りをしています。
「こりゃぁ、ミスも起きるよね。これを放っておいたのも俺の責任だ、誰でもミスなく作れるようにするから、少し時間をくれ。」これまでプログラミング学習をしてきた私は、Excel VBAで入力フォームを作ればいけそうだなとすぐに思いつきました。

時間はかかりましたが、完成した入力フォームを部下に使ってもらったところ、これで楽に仕事が進められるとすごく喜んでもらえました。
名ばかり管理職であった私も、明るくなった彼の顔をみて、少しは管理職っぽいことができた喜びと0→1を達成した喜びを噛み締めたのでした。

苦悩

プログラミング学習のモチベーションをキープすることは容易いわけではありませんでした。かく言う私も、学習休止期間が半年以上続いたりしたこともありました。
UdemyでWebスクレイピングを学んだり、DjangoSQLに触れてみたりと独学を続けてきましたが、学習歴だけが増えていくことに不安を感じていました。
「このままじゃ時間だけが過ぎていく、年も年なのに・・・どこかでプロにがっつり指導してもらった方がいいんだよな」と独学の限界を感じはじめました。
それでも独学を続け、「Webアプリで人の役に立つもの作れたらいいよな」と思っていました。

Python学んでいるのに機械学習をやらないのはもったいないかもしれないけど、興味のあるWeb開発の道に舵を切ろうと考え、色々調べてみました。
未経験者は地獄、年齢のことなど、調べなければよかったと後悔もしました。
でも、言われてみれば確かにその通りだなと。私たちの業界に化学の知識がない高齢の方が入社したらどうだろうか?
この先何年働いてくれるかわからない人に手取り足取り教えるだろうか?
自分たちの業界に置き換えれば答えは言わずもがな「ノー」です。
では、どんな人ならOKを出すだろうか?
化学の知識がある。即戦力になれる実力がある。年上だからといって偉そうにせずに周りと調和が取れる。そんな人ならウェルカムです。

じゃあ、どうやって未経験を脱出して即戦力になるほどの実力を身につけるんだい?

決意

そんな苦悩の日々を過ごす中、X(Twitter)を眺めていたときにおすすめにあらわれたのが、ゆうだいさんでした。
私がPythonを学ぶのにフォローしているデータサイエンティストのはやたすさんともつながりがある方なのか、へー。 プロフィールを見ればHappiness ChainというWebエンジニアを養成するスクールを経営している!何ッ!
それならと、Happiness Chainのサイトを早速見てみました。

正直、驚きました。プロになるためにはこんなにも学習するのかと。
それに加えて、プロの現役エンジニアがメンターであること、モダンな技術が学べて、高い自走力と転職成功率・・・すごすぎる!
ここだ!ここなら、門前払いされずに高校受験を前に諦めた夢を叶えることができるんじゃないか、残りの人生かけてみる価値はある!

そう思って、門を叩こうとしましたが、現在生徒の募集は行われていませんでした。
しかし、そんなことで諦めるわけはありません。LINEに友だち登録して募集開始の連絡を待つことにしました。
友だち登録から程なくしてLINEにセミナー開催のお知らせが来ました。

セミナー開催日、私は繁忙期にも関わらずそそくさと帰宅し、ブラウザを立ち上げ画面の前で待機していました。
そのときは来ました。セミナーの内容については書けませんが、驚きの連続でした。
そして、セミナーの最後には生徒募集開始のアナウンスもありました。 ついに来た!
私の中では、学ぶならここしかないと確信していました。
スクールである以上受講料が発生するのは当然、しかし妻は納得するだろうか?
今すぐにでも申し込みたい気持ちをグッとこらえて頭の中を整理することにしました。

数日かけて頭の中を整理しました。妻にはありのままに自分の思いを打ち明けました。
妻は快く承諾してくれました。
妻が出した条件は一つだけ、「スクールを卒業するまで退職しないでほしい」
本当にありがたい。

こうして、私はHappiness Chain Euforia2期生として入会したのでした。

厳しい道のりなのはわかっている。やってみせる!


ここまで読んでいただきありがとうございます。いかがだったでしょうか?
年齢を理由に新しいことへの挑戦を諦めているミドル世代に響いてくれたら幸いです。
今後は、私の学習記録などを綴っていきます。
ご期待ください